「腹が痛いので、もう少しだけ待ってくれ……」
「ちぇっ、仕方ねぇな。早くしなよ」
笠原の催促に冷やりとした俊介だったが、わざと辛そうに返答し約一分経過してから水を空流し、ロータンク付属の手洗器で手を洗った。
おもむろにトイレから出た俊介は笠原の表情を確かめた。
トイレに時間を要し待たされたことの不機嫌さはうかがえたが、疑念を抱いている気配はなかった。
ホッと胸を撫でおろした俊介は再び腕を拘束されあやたちのいる居間へと戻っていった。
笠原たちが別荘に立て籠もってから三日が経過した。
その間も彼らの欲望は衰えを見せることはなくあらゆる方法であやたちを辱しめた。
俊介は苦難に耐えながらトイレに行くたびにホログラムを使って信号を送った。
いつか誰かが気づいてくれるだろうことを信じて……
◇◇◇
その頃、別荘から少し離れた山道を一人の大学生が首から提げた双眼鏡を覗 き込みながら散策していた。
彼の名前は向井忠幸、二十一歳。T大学野鳥研究会の一員で、自然と鳥をこよなく愛し、鳥を観るためには時間を惜しまず山に出かける。
忠幸は軽井沢が好きだった。美しい景色が眺められ、鳥が多く生息している。
景色を見ている途中に鳥が現れる瞬間がたまらなく楽しいのだ。
東京から少し時間がかかるが向井は二週間に一度は訪れた。
双眼鏡を覗いていた向井がふっと山道で足を止めた。
得体の知れない光が向井の目に飛び込んできたのだ。
(・・・― ― ― ・・・)
「あれ……?この光は……?」
向井はもう一度光を確かめた。
「もしかして……!?」
少年時代ボーイスカウトに所属していた忠幸は、その光が助けを求めて発している信号であることをすぐに理解した。
救難信号には、笛などで音を出す方法、木などを燃やして三本の煙を出す方法、そして光の長短を使ってモールス信号を作る方法等がある。
今は誰かが光を使って救出を求めている。
光の源は前方右斜めだ。
忠幸は光が入ってくる方向に向かって歩いた。
「あっ!あの別荘の小さな窓からだ!急がなくては!」
忠幸は小走りに光の源に向かった。
近くに見えていても曲がりくねった山道を進むのは意外と時間がかかる。
別荘に到着した時にはすでに光は途絶えていた。
「どうしたのかな?もしかして急病だろうか?いや違う……わざわざモールス信号を送るぐらいだから何か深い理由があるんだ……」
小さな窓まで辿り着いたが、光源となる物体はそこにはなかった。
「ふうむ、妙だなあ……」
忠幸は別荘の周囲を歩き始めた。
建物の側面に大きな窓があった。
窓にはカーテンが引いてあって室内が見えない。
「ん……?」
よく見てみるとカーテンの隙間から室内がかすかにうかがえた。
電気が点灯している。ということは人がいる証しだ。
カーテンの隙間から必死に目を凝らしてその向こう側にあるものを見ようとした。
そして次の瞬間室内の光景に忠幸は我が目を疑った。
忠幸が目撃したものは、美しい全裸の女性が両手首を縛られ天井から吊るされている姿であった。
しかも太い野菜のようなもので秘所を男性に責められているではないか。
男女二人のほかにも人がいるようだがカーテンの隙間からはそれ以上は分からなかった。
(これは大変だ……この中の誰かが助けを求めているんだ……電話やメールができない事情があって仕方なく光のSOSを発信してるんだ……)
忠幸は恐怖で背中に冷たい汗が流れた。
(僕がここにいるのが見つかって捕まったら大変だ……)
忠幸は別荘から少し離れると、大きな木陰に身体を忍ばせ110番した。
「何がありましたか?事件ですか?事故ですか?」
「じ、事件です!救難信号を発見したので現場に近づいてみたら、室内で女の人が縛られてひどい目に遭ってます……!」
「落ち着いてください。こちらから聞く順に答えてください」
「あなたは当事者ですか?目撃者ですか?」
「目撃者です」
「いつのことですか?」
「救難信号は10分ほど前で、見たのは少し前です」
「場所はどこですか?地番は分かりますか?」
「わ、分かりません!軽井沢の山中なんですが、僕は山を散策していて見つけたので」
「だいじょうぶですよ。GPS情報で調べますので」
◇◇◇
大学生から警察にあやたちの別荘の異常事態が通報され、まもなく出動した武装警官八十人が身を潜め別荘を包囲した。
その後ハイカーを装った女性警官二人が玄関から堂々と訪問した。
チャイムを鳴らすと玄関に現れたのは笠原であった。
「突然すみません。私たちハイカーなんですけど、飲料水がなくなっちゃったので分けてもらえませんか?」
「ん?水か?ボトルの水でいいか?」
「ありがとうございます!もちろん結構です!」
まさかハイカー二人が女性警官だとはつゆも疑わない笠原はトイレ向かい側にある収納庫にペットボトルを取りに行った。
直ぐに女性警官は表で待機している刑事に目で合図を送った。
さらに刑事は木陰に潜んでいる武装警官に手で合図する。
腰をかがめ玄関に集結した武装警官は一気に別荘内になだれ込んだ。
「突入!!」
廊下にはペットボトルを持ったまま唖然とする笠原。
居間の中央には全裸で天井から吊り下げられたあやのあられもない姿があった。
床には後手に縛られた俊介が横たわり、ソファには百合が身体を丸めがたがたと震えていた。
犯人二人は警官に歯向かうこともなく即時逮捕された。
◇◇◇
別荘の室内を知らない警察がなぜ短時間で突入し犯人を逮捕することができたのか、疑問は残った。
実は警察はあやたちに別荘を販売した不動産会社に事前に連絡を取り別荘の配置図を入手していたのだった。
優秀な地元警察と協力的な不動産会社の連携が生んだ『ファインプレー』と言ってよいだろう。
いや、それよりも大学生向井忠幸の救難信号の知識と的確な判断があやたちを救ったと言っても過言ではないだろう。
その後、警察から忠幸に感謝状贈呈の連絡があったが、忠幸は「当たり前のことをしただけ」と語り固く辞退した。
また、あやたちは忠幸にお礼がしたいと警察に忠幸の連絡先を尋ねたが、同様に固辞の意向が示された。
その後、T大学の野鳥研究会あてに匿名の人物から「皆様のご研究にお役立てください」と記された手紙ともに一億円の寄付があったが、寄付をした人物が誰かは未だに判っていない。
完
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