知佳の美貌録「今日は歴史のおさらいを 赤線の地位と女衒のやり口」
赤線と呼ばれる地域は一般市民が暮らす街とは少し隔たった場所にあった。
赤線(あかせん)とは、GHQによる公娼廃止指令(1946年)から、売春防止法の施行(1958年)までの間に半ば公認で売春が行われていた日本の地域である。 とウィキペディアに記されている。
青線(あおせん)とは、1946年1月のGHQによる公娼廃止指令から、1957年4月の売春防止法の一部 特殊飲食店として売春行為を許容された地区と区別し営業許可なしに、一般の飲食店の営業許可のままで非合法に売春行為をさせていた区域を地図に青い線で囲み、俗に 「青線」 あるいは 「青線地帯」、「青線区域」 と呼んだとされている。 とウィキペディアに記されている。
この物語に登場する女衒が支配する地区は赤か青か定かではないが武士が支配していた時代遊郭と指定されていなかったものとみられることからここでは赤線 (あかせん) と記すものの実情は青線 (あおせん) ではなかったかと。
つまるところ飲食店どころか一般家庭内でも座布団を敷けば合意したものとみなし春をひさぐようになっていった地区ではないかと思われます。 日本人はとかく表面上きれいに見せたがります。
それが今日、過去を洗う (調査する) ことへの足枷になっているのですが・・・
赤線の地位
赤線が廃止になる前まで、ほんの一刻足を運べばそこには必ずと言っていいほど天城越え (娼婦と少年) にも出てくるような宿があり春を売る飯盛り女がいたし枕芸者もいた。
いわゆる旅人相手の私娼がいたのである。
この物語 (知佳の美貌録 高原ホテル) に登場する地区も多分に漏れずそのような赤線がそこばかりではなく近隣にも点在するような地区でした。
江戸の吉原でもご存知のように、このような地区は一般的な街並みと相容れず普通の婦女子は絶対に足を踏み入れない未開地とも思える荒れ地の果てに許され、あった。
しかも、そのような場所は教育上とか建前上忌み嫌われ赤線廃止と同時に地図にも書物にも載せられずひっそりとその姿を消していったのである。
赤線に続く道
一般市民が暮らす市街地と赤線との間には未開地ともいえる原野や許可なく入植した者が切り開いた田畑が存在した。
赤線に徒歩で向かおうとすると田んぼの畦道か原野の獣道のようなところを通らなければ辿り着けなかった。
だが春をひさぐ事業は儲かる。
そこで湯治のためと称し公的燃料 (石炭や重油) を使わない、水力発電の電気で賄える。 しかも軽い (敷設費用も安上がりな) 電車を走らせたようだ。
女衒のやり口
このような僻地であるからこそ貧農から騙し捕ってきた娘は彼らの懐からすれば無一文に近いのであるが、逆に売る方の側の親にとってみれば莫大な借金を背負わされ返せなければ恫喝されていることもあって逃げ出すに逃げ出せなかったのであろう。 青は別として赤ともなれば公に認められている。 借金を踏み倒すとなると政府に逆らうことにもなる。 これが恐ろしかったのだ。
女衒は娘を置き屋に売り飛ばしたのちも逃がさないよう何かと見張りを立て、仕込むときもそうなら仕込んだのちも枕営業で儲けようとする。 いわゆる未通を好む旦那 (旦那制度) からせしめる権利の一部を置屋に売って後も手放さず、買いたい側 (旦那) と買われる側 (娼婦) の色恋の仲立ちを行うという形で暴利を得たのであり、その文を持たされ行き来したのが女衒の娘だったのである。
ご存じの通り僻地の小作の娘が読み書きなどできるわけがない。 旦那への文の内容はだから女衒の娘の裁量にかかっていたのだ。
女衒の娘の役割
女衒の娘は売られてきた女の子に里心を持たさないよう (逃がさないよう) 当初から遊び相手として自分の孫娘を紹介しておいたのである。
彼女はだから暇さえあれば売られてきた女の子が住み暮らす置き屋に女衒の用事も併せ持ち出掛け遊んでやった。
年頃ともなれば春を売るための恋の相談相手を務め、彼女を買おうとする旦那の、女を口説き堕とすための相談事 (風采や床上げの料金など・相互に合意が無ければ売り買いできない暗黙の了解があった) も務めたのだ。
また、墓石の字がスラスラと読めるほどに幼いとはいえ読み書きができるし、女衒と共に住み暮らすものだから (実は隠れ潜んで涙を流すほど機微く仕込まれたが) 自然と身に着けた男女の仲の妙を知りえる故文持ちの役を持たされたのである。
年端もいかぬ娘ながらその実ヤリ手ばばぁのような役を担っていたのである。
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