私は前部座席下にあるレバーを引き、後部ドアを開けました。
惠が降車するよりも早く、私自身が降りて惠の下車の補助をしました。
惠の悲しそうな顔を見るのは辛かったのですが、それが運転手としての私にできる最後の務めと思ったのです。
もしも願いが叶うならば、ドアを開けずにずっとそのまま惠を閉じ込めておきたい…それが私の本音でした。
惠がドアを開けてクルマから降りてしまうと『もう永遠に会えない』と思いました。
一生にたった一度の
邂逅……
茶道には『一期一会』という言葉があります。
茶会に臨む際は、その機会、その人との
出会いは一生に一度のものと心得て、主客ともに
誠意を尽くせ、という
茶会の精神から生まれた言葉だといわれています。
惠はたった
一夜でしたが、精一杯私に
真心を尽くし、今、去っていこうとしています。
私もまた
刹那の瞬間を私なりに懸命に過ごせたと思っています。
そんなふたりにもついに別れのときが訪れました。
瞼の辺りをハンカチで拭った惠はおもむろに後部座席から出てきました。
世間の運転手がお客様にするように、私も同様に礼を述べました。
「ありがとうございました……」
「なんや、水くさいなぁ……」
惠は運転手としての私の挨拶を
儀礼的と捉えたのか、苦笑いを浮かべましたが、直ぐに真顔に変わったのが分かりました。
「裕太はん、おおきにぃ……うち、裕太はんのこと生涯忘れしまへんぇ……」
「惠……」
「
名残惜しゅうなるだけやさかい、うち、いにます……」
「もう一度だけ言わせて。惠、大好き……」
「お、おおきに……一晩だけの付き合いやったけど、うち、しあわせどしたわ……うちも裕太はんのことが……」
惠は涙目になっていました。
「いや、その先は言わないで……」
私はその先の言葉を制しました。
「なんでどすぅ?」
「君はその先を言っちゃだめなんだよ。惠、それじゃ、元気でね」
「裕太はんもお達者で……」
「それじゃね……」
惠の姿を瞼に焼きつけた私は、後ろ髪を引かれる思いで運転席に乗り込みました。
クラッチペダルを踏み込み、さらにアクセルペダルをゆっくりと踏みました。
クルマは混雑した四条通を東に向かって動き出しました。
一瞬でしたが、バックミラーにこちらを向いてぼんやりと立っている惠の姿が写りました。
しかしバックミラーをずっと覗いているわけにも行かず、前方に目をやりました。
再びバックミラーを覗いてみましたが、他のクルマに紛れて惠の姿は見えなくなっていました。
クルマは京都南インターチェンジへと向かいました。
◇
それから3週間が過ぎたある日、偶然乗客を京都へ送る機会に恵まれました。
乗客を京都府庁へ送った後、すぐに大阪には戻らず四条通りへと向かいました。
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