落涙
喫茶店の窓辺の席に、いつもと同じように彼が座ってくれていた。
同じ看護師仲間もこの喫茶は仕事帰りによく利用する
彼との待ち合わせみたいなところを見つかったらと思うと怖くて
結局玄関の外の植え込みの脇から彼の姿を見続け
彼が諦めて喫茶を出て
隣街に帰るため、駅方向に歩いて向かうのを陰ながら見送り
姿が見えなくなってから帰宅した。
辛かった。
彼に一目会って、気持ちを伝えたくて喫茶に行き、玄関前に行きつきながら入れず
しょんぼり帰る。
その後ろ姿を見てしまったことで、会いたい気持ちが抑えきれなくなってしまっていた。
「・・・とりあえず電話しました」と告げたときの
言いようのない不安と期待
ちゃんとそれに応えてくれていたのに、わたしの都合だけで顔も合わせずに立ち去らせてしまった。
怒っているだろうと思うと自然、涙が頬を伝った・・・。
看護している間に親しくなり、リハ病院に転院してからも会いに来てくれ
「この人ならきっと・・・」そう思ってプロポーズを受けた。
夫が退院して自宅に帰ってから暫らくは遠距離?中距離?交際
仕事に復帰し、自営で長距離トラックに乗るようになり
収益も順調に伸びたころ、寿退社? 今住んでるところに半ば強引に連れて行かれ
半同棲みたいな状態の中、孕んでしまい、それがきっかけで書類だけ提出し、結婚式も行わず形式上嫁いだ。
生来の方向音痴
連れてこられた場所が島だとは、何か月も気づかないまま
3世代同居し、生まれ故郷を思わせる山ばかりの過疎地みたいな木立の中に住み暮らした。
同居するお義母さんは気が強いくせに自由奔放にふるまい
夫は夫で、何かといえば仕事仕事の毎日
たまの休みは羽振りよく本島へタクシーで飲みに出て、昼近くになって帰ってくるのが当たり前になっていった。
子供が生まれると、ますますそれに拍車がかかった。
わたしはどこかに出かけるといえば夫に連れ出してもらう以外は
近所の店に日用品を買いに行く程度で、見るもの聞くものすべてが島のそれだけだった。
そんな状況が一変したのが居眠り運転による事故
フル・トレーラーはスクラップと化し、相手に支払う慰謝料や治療費などの損害賠償
それに加え、夫は再び入院生活で、あの大学病院とリハ病院に
生活費に困り、つてを頼って今の病院に勤めることに
なにしろ結婚以来島に籠りっきりの身、島から本島にへの道がわからない
免許はあるものの運転などしたこともない。
いつ壊れてもいいような軽乗用を破格値で譲ってもらい
散々事故を起こしながらも(うまく曲がれなくてぶつけ)、必死にハンドルにしがみつき
教えてもらった病院への道、ただそこだけ往復していた。
唯一の楽しみが、病院近くの喫茶店に仕事帰りに寄って、
コーヒー一杯を飲む時間のささやかな贅沢をすること
道順で、喫茶店のすぐ近くにあるケーキ屋さんでケーキを買って帰ること。
そんな日々の中にも、目に見えない変化が現れた
それがナース同士の猥談、露骨な性表現と不倫自慢
最初こそ、他人のそらごとと気にも留めなかったが、
喫茶店の脇の電柱に貼ってあった紙一枚で運命が変わったと思う。
躊躇い、戸惑いながら近くにあった公衆電話ボックスに入り
そこに同じ張り紙があったことから意を決してダイヤルを回した
そして、最初に出てくれたのが彼だった。
もう何年も夫婦生活がなく
それなのに、お義母さんは派手に男の人のお迎えの車に乗り込み出かけ
上機嫌で帰ってきては「典子さん、夕食まだなの?どこで遊んでたらこんなに遅くなるんでしょう」と
「わたしは長い間座敷牢に入れられていたんだ」
まだ女なんだと思いたかったのかもしれないと、ぼんやりそう考えたこともあった。
彼の腕に抱かれ、やさしく汚れている場所を開かれたとき
長い間、家庭のためと閉じ込めていた気持ちから解放されたような心地よさを覚え
ひとりの女として、いまだこれほどの貪欲さが、この身のうちに燻ぶっていたんだと 思い知らされた。
馬鹿な女ともて遊ばれたんだ
最初はそう思って泣き寝入りした、が、夜な夜な あの時のことを思い出し
目が冴えて眠れず、とうとう自宅からダイヤルを、彼の下宿に向けまわしていた。
その、馬鹿な女の気まぐれに彼は真剣に応じてくれている。
職場の誰にも見つからずに、もう一度彼の腕に抱かれる機会が持てたら・・・
「思い切って告げるんだ」
翌日、彼の姿を喫茶店で見つけ
ドアを開け、店内に入って彼の目の届く範囲内で席を探し、ゆっくり歩を進めた。
振り返った彼がすっ飛んできて、半ば強引に自分の席に引っ張っていってくれた。
きっとその時のわたしは強張った顔をして
女としては最低の態度に出てたかもしれない、そんな心の内など意に介さず
テーブルの上に必死の気持ちで置いたわたしの手のひらを、彼の手がやさしく包んでくれていた。
「やっと巡り会えた」彼のこの言葉に、目の奥が熱くなるのがわかった。
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