よそ様は自分のことなど見ていないように思え、どこかで誰かが必ず見ているものなのです。 入谷村では長者どもの愚行をある人たちが冷ややかな目で見ていました。 そしてある日を境に彼らは密かに下剋上に向かって走ったのです。
上薬研 (かんやげん) からの木出しは思ったようにうまくいきませんでした。 どういう契約を交わしたか知りませんが、谷川に沿って木馬道を作るのがいつの間にかい入谷部落全体の仕事になったからでした。
入谷部落の人たちはこの時代に至るまで家の普請は村中総出で行ったものでした。 大工の真似事をするものもいれば左官の真似事をする者もいてまあまあそれなりに家を建てるぐらいのことは出来たんです。
木馬道の作り方はそれと比べ粗末なもの、言ってみれば炭焼き小屋を建てるが如くの技さえあればできます。 そこで各集落の長は家の普請でも端役の者をこれに当たらせることにしたんです。
イの一番位選ばれたのが村迫金兵衛さんでした。 なにせ自宅から中組 (なかぐん) の左官屋の向かいの谷に向かって梯子状の道を作れば良いわけですから別にそれほどの技術はいらない・・・そう定男さんは踏んだんです。
木馬道は雑木の丸太を真束や竿、追い束などに、枝のような細い部分を番木に使います。
丸太と丸太は番線で縛り、番木は釘を打って止めます。
この段になってまず金兵衛さん、番線を締めるシノという道具を知りませんでした。 おまけに釘を打つ金槌を持ち合わせていなかったんです。
「なぁ~にお偉そうに」
金兵衛さん、真束や竿、追い束などを止めるのにほとんど五寸釘を鉞の背で打ちました。 まっすぐ打てたところもあればほとんどの場合鉞では打ちにくいものですから打ち損ねたんです。
番線でどうしても縛らなきゃならないところは仕方なく手で締めておいて足りないと思ったら得意の藁縄で縛りました。
本来なら山師の棟梁が差配しひとスパンひとスパン出来を確認して歩くんですが、入谷村の人々は木馬をそもそも知らずこれをおろそかにしました。
なるほど出来上がった道を歩いてみるとかつての沢渡りなどよりはるかに楽で歩きやすかったのです。 喜んだ定男さんは農協に完成報告を出しました。 そしていよいよ試験走行を始めたんです。
出だしはなるほど見事な出来の思えで別段問題もなく通過しましたが、最初の難所である滝つぼを過ぎた辺りから様子がおかしくなりました。
金兵衛さん、よせばいいのにそこいらに生えていた木を手当たり次第に鉞で切り倒し番木に使ったんです。 まるで真束かと思えるような番木もあれば女子でも簡単に手で折れるような小枝を使ったところもあったんです。 つまり線路のように水平でなければならない番木と番木の組み合わせが凸凹になってしまっていたんです。 しかも釘たるや持ち合わせが無くなると各戸が持っていた折れ釘を持ち寄らせ叩き直して使ったものだからまっすぐ立っておらず、或いは寸足らずで番木がろくろく止まってもいなかったんです。
それでも見学人の前で入谷村では初披露となる木馬引き人足さん、意気揚々と恰好をつけて引いていきました。 大人が束になっても運べなかった大量の木を載せ一気に滑り降りていくんです。 英雄気分で降りて行きましたが・・・
鉄道の線路で言えばレールが上下に波打ち、鉄橋の支柱がところどころ藁で作った縄で縛ってあったような頼りなげなもの。 そんなものの上を重さで言えば普通乗用車を走らせたんです。 昔の田舎人とは如何に無知であったかを物語るような光景でした。 鉄道車両なら車輪がいくつもあるから多少の波打ちはまあまあそれなりに打ち消してくれますが木で作った橇ではそうはいきません。 おまけにそれを支えていた支柱が炭俵を縛る縄で縛ったようなものですから結果は言うまでもありません。
普通に仕事として木馬に載せる量と違い試験用にほんの少し木を載せていて良かったものの橇もろとも木馬引きが谷底に転落したんです。 幸いにも木馬引きさん、長い修練でまるで鳶職のように身が軽かったものですから軽いけがで済んだものの業者も木馬引きも大怒りで一旦この事業は頓挫してしまいました。
この事故で業者以上に怒った人がいます。 なんとそれがこのバカげた木馬道を作った張本人の上薬研 (かんやげん) の村迫金兵衛さん当人だったのです。
どのように怒ったかと言うとこれ以降村迫金兵衛さん、自宅への往来に隠居 (えんきょ) の墓の脇を通り自宅に行き来する道を通らずわざわざ上馬見川の方を通り木馬道の番木を次々と鉞で叩き切って行き来したのです。
しかも金兵衛さん、こういったことにかけては徹底していて、金兵衛さんや玉枝さんの都合が悪いと子供たち3人が力を合わせ同じことを何度も何度もやるんです。
紙屋 (かみや) も注意するに越したことはないんですが仕返しが恐ろしく口出しが出来ません。
こうなると危なくて木馬を引こうにもいちいち先導を先に行かせ金兵衛さんがいないか、木馬道に異常はないか点検しつつ進まないと危なくて仕事になりません。
馬車引きにしても約束通り木が集まっていない事には向かって見ても無駄になります。 入谷村を嫌って頼んでも来なくなったんです。
上薬研 (かんやげん) の裏山はまれにみる良質の松林でした。 今なら高級マツタケが取れ放題というようなお宝の山だったんですが悲しいかなこの時代のこの地区ではマツタケを食す習慣はなく定男さん、目先のお金に目がくらんでこの山を丸裸にしたんです。
松よりもクヌギの方が炭焼きには都合が良かったからでした。
しかし木馬に載せられる木は軽いものでなければ今回のような出来損ないの木馬道では危なくて到底出せません。 このため出せる木は限られてしまい伐採したにも関わらずほぼほぼ放置状態で終わってしまったんです。
大木が生い茂り上薬研 (かんやげん) の田んぼに陽射しが降り注がなかったものがこれを機に日射状態が良くなり取れ高も増したんです。 これ以降この山は金兵衛さんが勝手に伐採するようになっていったんです。
山火事に始まって鴨居に紐、道普請から木馬道に至っていよいよ入谷村ではかつての長者 (知識人を気取る連中) を相手にしなくなりました。 各々勝手に自分たちの利益優先で奔走するようになっていったのです。
その最たるものが埼松家でした。
道が良くなったことでいち早く三輪トラックを購入しこの村で出る炭や薪を一手に引き取り自分たちで里に運び出し個人宅に販売していったんです。
しかも生産物は即金で買いたたくんです。
農協に出せは直ぐにはお金にならなかったこの当時、村人たちはこれがワナとも知らず売りまくりました。
しかしある程度高値で買ってくれたのは最初の頃だけで農協に見限られて以降次第次第にまるで真綿で首を絞めるが如く買いたたかれたんです。
農協から手を切らせた、それが策略であり運命の分かれ道でした。
埼松家の業績は例えは炭は農協の検査も必要なくなり、おまけのそのマージンも必要なくなったことから激安で販売でき、一気にシェアは拡大していきました。
薪などは農協はある程度乾燥させたら出荷してましたが埼松家は徹底的に乾燥させ売って歩きましたから重宝されたんです。 しかもその乾燥で目減りした分買い取る時は安値に叩いたんです。
薪 (割り木) とは一定の長さの針金で木を束ねたものを言うんですが、生木の時はぎゅうぎゅう詰めにしたものも乾燥させれば半分近くに減ります。
埼松家は当初は生木の状態で購入していたにも関わらず、じわりじわりと乾燥した薪一束分として買い取り金を払う (乾燥し半分に縮んだら半額という風に) ようになっていったんです。 つまり目減りした分を安く買い叩いたんです。 消費者に喜ばれ自分もシェアが広がり儲かったんです。
瞬く間に原釜 (はらがま) 家や紙屋 (かみや) 家を追い越し富豪になっていったんです。
それだけじゃないんです。 これを見た正治さん、自分で事業を起こし木出しを木馬ではなく架線を使って出し始めたんです。
しかも里の製材所への搬送は自前でトラックを購入し運び込んだんです。
こうなると売る方は高値がつく可能性の高い市場に出そうとします。
たちまち入谷村に近いあの強欲な里の製材所は衰退し始めたんです。 大都市に近い製材所が市場から買い取ってしまうからです。
そのやり方は豪胆そのものでした。 普通架線の基地は比較的平坦地で、しかもトラックや馬車が出入りできる場所を選びます。 ところが正治さん、これでは全て寛治さんの土地を使わざるをえないことから平坦地として入谷川に目をつけました。
入谷川に運び出した木を橋代わりに桁として渡し平地を作り、基地局は川の上方、切り立った山の頂上に作ったんです。 他の人が考えないというのはこの頂上から真下に架線で引っ張って来た木を落下 (滑落) させ車に台上 (橋桁上) から転がし落とし載せるんです。
その落下の凄まじさ、恐ろしさに寛治さん怯えきって近づこうともしなかったんです。
この架線方式の良いところは架線さえ引けばどんな山奥からでも、谷を越えでも楽々と運び出せる点です。
難しいのは転がす場所とタイミングを誤れば人身事故に繋がるし下手をすれば荷を積みに来たトラックがぺしゃんこになる。
こうして正治さん、この村が所有する材木の大半を切り出す事業を一手に担ったんです。
こうして正治さんも本家を追い抜き分家が上組 (かみぐん) のリーダー格にのし上がっていきました。
しかしこの双方は決して元長者を仲間に引き入れようとはしませんでした。 元長者は長者で相変わらず同じやり方を、つまり入谷村の連中を常会と称し搔き集めては如何にも自分あっての村のような言動を繰り返し上納金をせしめていたからです。
例えばの話し寛治さん、こうなっても相変わらず長者の施しを餌に野で埼松美代子さんを転がしていたからです。
ただ美代子さんの運が良かったのは夫の埼松昭義さん、あまりに儲かり過ぎて労働者がひとりでも多く欲しかったものですから力持ちの美代子さんを実家に追い返そうとはしなかったんです。
そのかわり埼松家での彼女の扱いは牛馬以下になっていきました。 躰が病んでも誰ひとり心配するものなどいなくなったんです。
寛治さんのもうひとりの秘めたる愛人である晴世さんと、奥さんがあのような不幸に見舞われた直後にも関わらず相変わらず反省の色もなく地蔵堂で逢引きし続けていました。
そのような状態を上組 (かみぐん) の他の5軒の家もよく知っていて、おまけに原釜 (はらがま) の求心力が失せたことからもう誰も地蔵堂で年数回の念仏勤行を行おうとしなくなっていったんです。
地蔵堂そのものは廃れましたが寛治さんと晴世さんの
逢瀬はますます盛んになりある日のこと、これに業を煮やした正治さんがついに妻に向かって手を上げ、3人の娘たちも口々に罵ったことからいたたまれなくなった晴世さんは上野 (かみ) 家から忽然と姿をくらましました。
この事件に関わった3人の人妻さんたちにはある共通点がありました。 3人が3人ともあることが原因でご主人から愛想を尽かれたことです。
その原因となった最初の人はこうでした。
「この頃難儀で・・・」
こう言ってきたのは寛治さんの妻 美晴さんでした。 普通に立って歩けないというんです。 詳しく聞こうにも本人んは頑なに隠そうとするんですが・・・ある日とうとう座り込んで唸り始めたんです。
脱肛でした。
それも本人が耐え切れないと言い始めた頃には既に尻からバナナが生えているような状態だったのです。
投薬や塗布ではどうにもならず手術しました。
ところがそれが問題を悪化させたのです。
当時はまだレーザーメスなどと言うものはありません。
肛門周辺の医学知識も未熟です。
そのような医師がはみ出してる部分を安易に切ったらどうなるか。
肛門括約筋の断裂でした。
要するに生理現象が起こるので仕方なく出すと一緒に出て来てしまいそのまま引っ込まなくなる酷かったんです。
本人も懲りなければ医師もで、一見しただけで失敗と分かっているのに再び切って更に悪化させました。
寛治さん、自分が原因を作っておいて終いには汚らしいと見向きもしなくなったんです。 なので代替えに美代子さんに再び手を出し、使えなくなると晴世さんに手を出したんです。
美代子さんも晴世さんも多少なりとも同じ状態になりました。 寛治さんの願いを汲んで貸し出したのが間違いの元だったんです。
正治さんにしてもそれがなければ手を上げたりしなかったんでしょうが閉じなくなった妻の下の世話までもする気になれなかったようです。
世の中は女が動かすとよく言われますが、妻を行方知れずにした正治さんは当初は事業のことが頭から離れず、それでも懸命に立ち働きました。
ところがこの危険極まりない事業にやがて人々は恐れをなしてひとり減りふたり減り、ついに自分だけとなり疲れも溜まり思考が追いついていかなくなり手法も無茶苦茶になっていったんです。
とうとうある日、基地局がある頂上から落下して来た木の下敷きになって終焉を迎えたのです。
人が足りてたら頂上からひとまとめにした木を架線の余力を使いワイヤーで吊り降ろすものを、この頃ではまとめて積んでおいて、その堰を切って雪崩落しに落下させるやり方をしてたんです。 その集積所が何らかの理由で崩落したんです。
落下して来る木から自分が大切にしているトラックを守ろうと躰を張ったのが間違いでした。 トラックもろとも木材集積所が押し寄せる木で大破したんです。
正治さんに妻を愛でてそれでよしとする気持ちがもう少しあれば防げた事故でした。
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