知佳の美貌録「山の斜面に建てられた英文字のホテル」
経営者が、
「まだ立ち直れる」
そう豪語する理由に「英文字」(実際にはローマ字だが)でホテル名が書かれていた。
当時としては別天地にしゃれたホテルを所有する強みからだったからかもしれない。
「いろんなホテルの名前を見て来たけど、これは読めなかった」
○○ KOGEN HOTEL ----- コンクリート打ちっぱなしの地に同系色で、そう書かれていた。
そして数年が経過し、久美がこのホテルに招かれた時には、まるでそこは廃屋だった。
不思議と客が来る理由に、
○ 高原から見下ろす、街の情景が他にはない風情を醸し出していたから。
○ ツアーが恒例で計画を組むから。
当時よくあった事なかれ主義、毎年同じことをすれば成功間違いなし、
それ以外、何一つ良いところはなかった。
地上2階建てに見えるホテルは、実はある場所から見れば客室部分は3階建で、
そう、海側の、玄関から見えない、あるところから見れば3階建てに見える、お客様にすれば地下部分が存在していた。
一般の方の客室のほとんどが、そこだった。
「客は夜、寝に来るだけだから、山は見えなくていい。海辺にある市街地の夜景が観れたら、素直に寝てくれる」
オーナーの言い分だったし、不思議と客も納得してくれたが、久美だけは一度もそんな場所で寝ようとは思わなかった。
布団は湿っぽくて、ムカデがしょっちゅう這いまわる地下室では。
それだけじゃない。
一見してお隣の敷地に建つバンガロー風に見える、ホテル正面から見れば右側の木造の建物も、のちに延べ床面積を広げるため違法と知りながら急ごしらえで取り付けたもの、 更に屋根。
鉄筋コンクリートでビル風に作られたはずの建屋に、なぜか不似合いな三角の両勾配(切妻風の)トタン屋根。
スイスアルプスをもじった、
実はこれ、手抜き工事で雨漏りがひどく、後で取り付けた急ごしらえの、テラコッタや銅板葺のような高級品ではなく、平トタン屋根だった。
その、玄関前の駐車場に立つと、身体の平衡感覚を奪われてしまうほど、地盤は傾いていた。
どれぐらいの傾きかと言えば、バスをホテルと平行に並べ、その床を水平にしようとすれば、斜面の下側となるタイヤを20センチ以上持ち上げなければ平行にならないほど。
お客様は降車するとき、一様にバス酔いした風に感じたという。
雪や、雨でも降れば、たちまち水流はホテルに向かって流れた。
そんなだから、当然木造家屋は鉄筋コンクリートの建屋と傾く速さの度合いが違った。
一方だけが急速に傾き、床に相当の段差が生じた。
立地条件の土質も、火山灰のボロボロとした岩石でできていたため、老巧化に拍車がかかったようだった。
こんなになっても、経営者はメンテナンスなど論外と支配人に言い続けた。
例えばの話し、
玄関を入った先がフロントと、その後ろがホテル自慢の眺望レストランになっている。
そこに吊るされているカーテンは、開設当初から一度も外したことがなく、締めた、動かしたこともない。
少しでも触れば、パラパラと埃が舞い、染地の金色が剥がれ落ちた。
そんなところを、客に見せないよう営業しろとオーナーは言った。
儲けただけ遊興費に浪費し、メンテナンスは行わなかった結果、久美が出勤し始めて間もなく、室内が傘をさしても歩けないほどの大洪水になった。
天上の水道管が破れ、水が噴き出したためだったが、自然の雨漏りなど、毎度ごく普通にあった。
例の如く、天井から滝のように雨漏りがしているのを見つけ、
「ごめんね、忙しい時に電話して」
「なんだ、忙しいってわかってるんだったら、電話なんかすんな!」
「だってぇ~・・・雨漏りがするんだよ。もうすぐお客さんが入るのに・・・」
「俺がそんなこと知ったこっちゃない。第一、前の分の金が一銭も入ってないんだぞ」
「わかってる。だから今回はちゃんと払うっていってるでしょう?支配人が今金策中だからさ」
久美だけが、このメンテナンスを業者にロハで命じた。
「まったくお前ってやつは、今日だけだぞ」
「うん、わかってる。終わったらちゃんと昆布茶煎れてあげるから」
どこからどこまでボロボロなのかわからない配管を、四苦八苦しながら、久美が煎れるお茶のため繋いでくれた。
それがまた、くだんのおばさんの感情を逆なでした。